ボロージャのZUMZUMZUM

ずしりとおもい

親が帰った翌日は大寝坊。

日本人の子とモスクワ川クルーズ行こうとか行ってたのに、
そういえば約束した日本人の子たちの連絡先誰も知らないので放置。
口約束ってあてになんないよね。(なにそれ)

というわけで一気に予定が空いたので惰眠を貪る・・・

きもちよーくゴロゴロ寝ては覚めてを繰り返してもう昼過ぎ。
シャワー浴びなきゃと思って服を脱ぎだしたら、



ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン




誰かがドアを猛烈にたたいているー゜д゜!!
いつもなら「だれー?Kto tam?」とか言ってドア開けるけど、
残念ながら今半分・・・いや、結構裸。笑

ということで居留守決定。
雹が降ってるかのような音がやっとやみ、数秒の静けさ。

ほっ。

としてドアの向こうの知らない誰かが去るのを待っていたら、




ズ、 ズサーッ




封筒がドアのしたから投げ入れられてきたー゜д゜!!
手紙ー?まっさかー!なんて拾い上げてみるとおかの宛ての封書ではないか。



ん、ていうかこのスタンプ・・・



セルビアって書いてあるじゃん!!!!



見覚えのある語学学校のマークの付いた簡素な封筒を開けると、プリントが3枚。
・サマースクール参加者への手紙
・地図とミニ会話集
・招待状


届いた・・・
ついにセルビアで勉強するべく最後の書類が届いた・・・
絶対郵便届くはずないって諦めていたのにセルビアから手紙が届いたー!!
ロシア語で住所かいてないのに届いたー!!(ここに一番驚いた)



やったー:)



セルビア語と英語で書かれた書類一式・・・

・・・そっか、もうロシア語じゃないんだ。
ロシアに来る前は、言葉に対する恐怖はあんまりなかったな。
生きていくのに最低限必要な言葉は学校で習ったし、積み重ねも多少あったし。

でもセルビアは違う。

ほとんどゼロの状態。
自分で勉強していても、教育は受けていない。
なんと恐ろしい選択をしたんだろうと今この瞬間になって感じた。
セルビアから届いたこの3枚の紙は、ずしりとおもい。
楽しみな気持ちと不安が、この紙切れを重くする。


ぼくはこのプリントの重みを最後まで忘れないだろうか。


覚悟をするための時間はあと1週間。


その間に


・・・ロシア語訛りをなんとかしないと!(切実)

モスクワ観光にいってきた

今週はなんと両親が日本からはるばるやってきたのでモスクワ観光!
事前に色んな友達から仕入れたネタでガイドっぽく案内してきました。

案内したところは、

赤の広場
トレチャコフ美術館(旧館)
救世主キリスト聖堂
アルバート通り
クレムリン(内部)
ワシーリー聖堂(内部)
現代美術館(MMOMA)
バレエ「ドン・キホーテ」鑑賞(@ノーヴァヤ・オペラ)
ノヴォデーヴィチ修道院
モスクワ川クルーズ
マヤコフスキイ博物館
全ロシア展覧会場(旧ВДНХ)

いやー、ロシア語分からない人つれて歩くのは大変です。チケットからトイレからレストランのメニューまでなーんにも読めないんだから!おかげでいつもよりいっぱいロシア語はなしました。笑

それでもこうやってわざわざ来てくれて、バレエ観て喜んだり、地下鉄のエスカレーターの速さに驚いたり、ワシーリー聖堂みて感嘆したりしてくれたので良かったです。僕はここでこうやって生きてるんだよ、って少しでも感じてもらえたはず。・・・特にマヤコフスキイ博物館で。笑

彼らは日本から羊羹と靴などお土産を持ってきてくれ、その代わりに岡野がロシア各地で買った妙なお土産を持って帰っていきました。本やDVDも。こっちが渡した荷物10キロくらいあったかな・・・苦笑

それにお土産をくれただけでなく、現代美術館でドミートリー・プリゴフの画集まで買ってくれました!!!現代美術館で「プリゴフー!!!!」と声を張り上げる東洋人は他にはいません。笑 親もなんのこっちゃわからんわという反応・・・。画集は日本までお預けなので早く帰りたいです。(めちゃくちゃ)

ご飯も親というスポンサーがいたのでいつもより豪勢でした。ロシア料理、グルジア料理、ウクライナ料理、イタリア料理とかもうおなかいっぱい。彼らはロシア料理よりグルジア料理のほうが口にあってたみたい。笑 ロシア料理はちゃんとボルシチとかピロシキとかブリヌイとかクワスとか王道で攻めたよ!!(ガイドさんぽく笑)

クレムリンでは、幸か不幸か特別展が催されていました。なんと「日本のサムライ」展。日本の国立博物館から貸し出されたもので、家康に謙譲された変わり兜とか武士にまつわるものがいっぱい。案の定ロシア人に「ここで自分の国の歴史を見てるのかい?」とか声かけられる始末。笑

という感じでこの一週間弱よく歩いて、食べて、観てと充実した毎日だった。

お父さんとお母さん、プリゴフの画集・・・もだけど(笑)来てくれてありがとう。(みてないけど)
そして重たい荷物すみません・・・・死

ホームシックにはならないタイプだけど、
会えるとやっぱり嬉しいなーと思った1週間でした。

都会を離れて

今日はモスクワからちょっと遠出。レニングラード街道沿いに伸びるエレクトリーチカ(近郊電車)に揺られて向かう先は、モスクワの西北に位置するソルネチノゴールスク市。

朝から出かける予定だったけど、朝ごはんのんびり食べて、メール返してとかしてたら出発12時でした。目的地までは電車で1時間半くらいなのでまあ問題ない。

ご飯食べて眠くなりながらも、まずはレニングラード駅に到着。近郊電車のカッサがすごい行列なので途方にくれていたら、自動券売機がある!!使い方が分からないので近くにいたお姉さんに買ってもらう。切符が何故か19ルーブル(≒95円)。安すぎるから不安になりつつも、乗車。


・・・そして不安は的中・・・


しばらくして始まった車内での切符チェックで、


車掌「あんたの駅とっくに通り過ぎてるわよ!!」

ぼく「はあ!?よくわかんない。」

車掌「駅を通り過ぎたって言ってるのよ!!何聞いてたの!!!!」

ぼく「いや、ポドソールネチナヤ駅(21駅目)までなんですけど。まだですよね。」

車掌「あんたの切符ホヴリノ(6駅目)までよ!追加料金払いなさい!!」

ぼく「はい・・・」

というわけで罰金250円あまりを支払い、ご丁寧に『罰金領収書』なるものを頂きました。切符買ってくれたお姉さんはいったい何してくれたんだ。笑

そのままガタゴト揺られて、目的地ポドソールネチナヤ駅に到着。

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駅を出てバス停を1回間違えて、目的の24番バスのりばへ着いたのが14時すぎ。
なのにこれから向かうシャフマトヴォ村へのバスが16時にしかない。
どんだけ田舎なんだ!!と思いながらも、しょうがないのでタクシーをひろう。


ところで今回ソールネチノゴールスク市、シャフマトヴォ村に来た目的はこれ↓

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さあ、みんな声に出して読んでみよー。

そう、ここシャフマトヴォにはロシア・シンボリズムを代表する詩人アレクサンドル・ブロークのおじいさんの屋敷が保存されているんですー!!そして上の石碑にも書いてある通り、幼少から彼は夏の間ここに住み、詩作などに従事していました。彼はこの地についてこんな詩行を残しています:

教会は川の上で白み、
川の向こうにはまた―森林、野原・・・
こんなやさしい美しさをもって
ロシアの大地は輝いている

(拙訳おかの)

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屋敷はなかなか大きくて、デザインはシンプル。窓ガラスの色をところどころ変えてあるのがなかなかいい味を出している。ブロークの祖父母の部屋、食堂、客間、2階には小さな図書館、そして書斎といったつくり。食堂では頻繁に文学談義が繰り広げられたそうです。ゆっくり部屋を見て回りたかったんだけど、ツアーの大群を避けるため博物館員のおばさんがおかのを引っ張りまわすので順番とかめちゃくちゃ。ブロークのおばあちゃんの部屋ちゃんと見れなかった・・・涙

博物館を出てからは、屋敷の周りに広がる庭園を散歩。天気もいいし、空気もおいしいし、花も咲いてきれいだしと言うことなし。ヤースナヤ・パリャーナよりこっちの庭園のほうがきれいで気に入った。

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たまたま結婚式もやっていて、新郎新婦がドレスアップして博物館のツアーに参加していて不思議な光景でした。ちなみにブロークの奥さんは、かの有名な学者メンデレーエフの娘さんです。メンデレーエフの実家は隣の隣の村にあります。

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屋敷の周りをぐるっと回って。今度は林の中の散歩道を進んでいきます。
色んな花が咲いていて、木々の緑が太陽の光でぴかぴかしていてほんと夢みたい。
ベンチに座ってしばらく自然の中で無になっていました。

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一人できてるのにこんなに元気!笑
恥ずかしいとか最近なくなってきたよ(危険)

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花の見ごろはもう過ぎてるみたいだったけど、枯れていなくて良かった。
おかげでハチがいっぱいいて大変だったけど。笑

17時近くなったので、そろそろ駅までリターン。
行きはタクシーで来たけど帰りは節約してバスで、そう思ってバス停の場所を聞くと・・・

最寄のバス停が3キロ先だというじゃないか!

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「ほんとに!?」と驚嘆しているおかのに博物館のおばさん2人は、

「ブロークは8歳のときからここを歩いていたのよ!大丈夫!!」

とあんまり励まされない励ましの言葉をかけてくださりました。


というわけでいざバス停へ。


始めは空気がおいしいーとか楽しく歩いていたんですが、途中で変なブンブンいう虫に追いかけられてパニックになった後はもう体力なし。笑 結局道を通りかかったおじさんのバイクに乗せてもらってバス停までたどり着きましたv

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ブロークも昔ここを歩いたのかーって考えてるときは何か彼を身近に感じました。
まあ、普段から読んだりするわけでもないんですが。
もうちっと予習をしてくるべきだったかもしれません。

駅までのバスは2時間に1本。人がぎゅうぎゅうでみんな絶叫。
もうぜったいあんなバス乗りたくない・・・笑

というわけで

モスクワ近郊の自然に触れ、
ロシア文学の遺産に触れ、
未知なる町を体験した、

久しぶりに冒険したみたいで楽しかった1日でした。

運命の皮肉

6月5日木曜日。

綿毛が舞うモスクワは強風。天気はきっと崩れるのだろう。
でもこの日は天気なんてどうでも良かった。少し緊張していたから。

11時からテストだった。

このテストは、ロシア連邦政府が非ロシア国民を対象に実施しているロシア語の国家試験(いわゆるТРКИ)。ロシア国籍を取得する際にも、このテストの国籍取得のためのレベルを合格する必要があります。科目は文法・読解・聴解・作文・会話の5科目。

テストを受けること自体に最初は乗り気じゃなかった。
でも自分に今何が足りないかを知るためには、
客観的尺度から自分のロシア語を見ないといけない―そう思って受験を決めた。

テストが始まったのは予定より30分遅れ。
1日目は文法と読解。

読解は嫌いじゃない。
テスト本番は、イルクーツクの歴史の話にロトマンの話、最後に小説がひとつあった。

この小説を見たとき、思わず笑顔になった。


・・・チンギス・アイトマートフだ!


正直驚いた。テストの問題に好きな作家の作品が使われるなんて。

彼は1928年生まれのキルギスの作家。父はキルギスの公務員。母はタタール人で、女優だった。父は1938年に粛清されている。チンギス・アイトマートフは1946年にキルギス農業大学(ビシュケク)に入学、卒業後しばし技師として働くも、文学の道を志してゴーリキー文学大学(モスクワ)に入学。
その後作家として作品が出版されるようになる。有名な作品は『ジャミーリャ』(1958)、『一世紀より長い一日』(1980年)など。邦訳も多く、『チンギス・ハンの白い雲』や『涙が星に変わるとき』とか図書館にありますよ、>外大生のみんな

昨夏に『涙が星に変わるとき』を読んで感動した記憶が、
テストの最中なのによみがえってきた。(テスト問題は全然違うテキストだったけどw)
そのせいかもう問題を解くというよりは、ただにやにや読書している感じだった。
テストの後友達に「テストの問題にアイトマートフでたー!!!」
とうきうきして語ったのに理解してもらえなかった。笑 そんなもんか。

作家として有名なだけでなく、ソ連崩壊後は在外の大使の職を歴任し、キルギス政治にも貢献した。息子は外務大臣だったらしい。

そんな彼は10日火曜日に腎不全で亡くなりました。
治療のために訪れていた、ドイツのニュルンベルクで。

入院していることは、ある方のブログを通じて知っていたのですが、
こんなに早く訃報を聞くとは思っても見なかったというのが正直なところです。

テストの問題に出たのは何だか偶然じゃない気がして不思議な気分。
帰国したら、また彼の本を手に取ろうと思います。


心から彼のご冥福をお祈りすると共に、
彼の作品がこれからも読みつがれていくことを願うばかりです。

少しみえてきた

詩人マヤコフスキイが好きだ。

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常に自分でそういってきた岡野ですが、ここ2ヶ月は朗読CDも詩集も伝記も本棚にしまいこんで、ちょっとほったらかしにしていました。少し真剣に向き合うために。

好きな作家を研究テーマとして扱いたいと思うのは自然なことだけど、
それによって
「なぜこの作家を研究しようと思うのか」
「この作家を今研究する意味は何なのか」
を見失っている気がしていたから。

マヤコフスキイの研究というのは、もはやブームが去ってしまったし、新しい研究書が出版されているわけでもありません。じゃあ、なぜ今自分がそれをやりたいのか、そしてどんな答えを見つけたいのか―それは「好きだから」という理由では語ってはいけないと思うのです。もう少し筋の通った、学術的な展望が必要な気がするのです。

ほったらかしにして1ヶ月くらいは、彼のことを思い出すこともなく、むしろハルムスやコヴァーリあたりに傾倒して楽しく(ロシア人的にはおかしく)生活していました。

マヤコフスキイに回帰するきっかけを作ったのは、2人の友人の言葉でした。ある日詩人のリョーシャがマヤコフスキイの詩を引用してきた。「ズボンをはいた雲」と「君らには出来るって言うのかい」と何か知らない作品。


彼は言った「僕は初期の作品が好きかな。」


同じだ。

僕と、ではなくてマヤコフスキイと同時代を生きたノーベル賞作家・詩人であるパステルナークと。彼はマヤコフスキイの自殺の後、「ズボンをはいた雲」の一部を読み上げた。そして同じく20世紀初頭の銀の時代を生きた女流詩人アフマートヴァも、マヤコフスキイの革命以前(〜1917)の詩を賞賛している。


そういえば学校の授業でも革命以前の詩ばかりを読んだなあ。


またある日。映画業界で働くローマの一言がこのなんともいえない気持ちを一歩前へと押し出した。


「僕はマヤコフスキイの初期の抒情詩がすきだな。なんかアヴァンギャルドっぽくなくて」


そっか。


今まで抱いていたイメージに少しの間違いがあったことに気づいた。初期の作品はアーバニズム的だったり未来主義的だったりするもので、後期は叙情的かつ主観的なテーマを謳ったものなんだと思っていた。


そうじゃない。


この間違いに気が付いたとき、いつだったかに読んだ論文の断片を思い出した。ニコライ・アセィエフが書いた、『これについて』(マヤコフスキイの1923年の作品)に関する論文の一文。


…マヤコフスキイと親しい関係者たちとの間に重大な、原則的ないさかいがあった。


この「いさかい」が生じたのは、マヤコフスキイが「これについて」で個人的で叙情的なテーマを扱ったことが原因と見られる。この詩の中に占める個人的なストーリーの割合が大きすぎるからだった。


じゃあなんでマヤコフスキイはこの詩を書いたんだろう。

どうしてわざわざ自分の私生活を持ち込んだんだろう。

そしてなぜロシア人はこの抒情詩を好きだといわないんだろう。



ほーらもう見えてきた、



自分が何を解き明かしたいのか。


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