ボロージャのZUMZUMZUM

少しみえてきた

詩人マヤコフスキイが好きだ。

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常に自分でそういってきた岡野ですが、ここ2ヶ月は朗読CDも詩集も伝記も本棚にしまいこんで、ちょっとほったらかしにしていました。少し真剣に向き合うために。

好きな作家を研究テーマとして扱いたいと思うのは自然なことだけど、
それによって
「なぜこの作家を研究しようと思うのか」
「この作家を今研究する意味は何なのか」
を見失っている気がしていたから。

マヤコフスキイの研究というのは、もはやブームが去ってしまったし、新しい研究書が出版されているわけでもありません。じゃあ、なぜ今自分がそれをやりたいのか、そしてどんな答えを見つけたいのか―それは「好きだから」という理由では語ってはいけないと思うのです。もう少し筋の通った、学術的な展望が必要な気がするのです。

ほったらかしにして1ヶ月くらいは、彼のことを思い出すこともなく、むしろハルムスやコヴァーリあたりに傾倒して楽しく(ロシア人的にはおかしく)生活していました。

マヤコフスキイに回帰するきっかけを作ったのは、2人の友人の言葉でした。ある日詩人のリョーシャがマヤコフスキイの詩を引用してきた。「ズボンをはいた雲」と「君らには出来るって言うのかい」と何か知らない作品。


彼は言った「僕は初期の作品が好きかな。」


同じだ。

僕と、ではなくてマヤコフスキイと同時代を生きたノーベル賞作家・詩人であるパステルナークと。彼はマヤコフスキイの自殺の後、「ズボンをはいた雲」の一部を読み上げた。そして同じく20世紀初頭の銀の時代を生きた女流詩人アフマートヴァも、マヤコフスキイの革命以前(〜1917)の詩を賞賛している。


そういえば学校の授業でも革命以前の詩ばかりを読んだなあ。


またある日。映画業界で働くローマの一言がこのなんともいえない気持ちを一歩前へと押し出した。


「僕はマヤコフスキイの初期の抒情詩がすきだな。なんかアヴァンギャルドっぽくなくて」


そっか。


今まで抱いていたイメージに少しの間違いがあったことに気づいた。初期の作品はアーバニズム的だったり未来主義的だったりするもので、後期は叙情的かつ主観的なテーマを謳ったものなんだと思っていた。


そうじゃない。


この間違いに気が付いたとき、いつだったかに読んだ論文の断片を思い出した。ニコライ・アセィエフが書いた、『これについて』(マヤコフスキイの1923年の作品)に関する論文の一文。


…マヤコフスキイと親しい関係者たちとの間に重大な、原則的ないさかいがあった。


この「いさかい」が生じたのは、マヤコフスキイが「これについて」で個人的で叙情的なテーマを扱ったことが原因と見られる。この詩の中に占める個人的なストーリーの割合が大きすぎるからだった。


じゃあなんでマヤコフスキイはこの詩を書いたんだろう。

どうしてわざわざ自分の私生活を持ち込んだんだろう。

そしてなぜロシア人はこの抒情詩を好きだといわないんだろう。



ほーらもう見えてきた、



自分が何を解き明かしたいのか。


コメント


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きゃなめさんのね、感性のみずみずしさが
うらやましい。若いっていいなぁ。

ごぞんじかもしれませんが、
ハルムスの世界
http://xapmcnosekai.tuzikaze.com/
ハルムス好きの方です。

hiro | URL | 2008年06月20日(Fri)22:06 [EDIT]


hiroさん

こんにちは。そのようなお言葉をいただけて光栄です。

また、自分の書いた言葉が人の目に触れているんだなと再確認して身の引き締まる思いですね。

「ハルムスの世界」、時々覗かせてもらっています。母語でハルムスに触れられるというのはありがたい限りです。いつかこんな風に文化を紹介できる人間になりたいものです。

ご好意本当に感謝します。

きゃなめ | URL | 2008年06月21日(Sat)06:35 [EDIT]


 

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