ロシアの詩人といえばプーシキン、それに続くのがレールモントフ。
後世に彼ら以上の才能を持った詩人はロシアにはいないといわれる。

M・Yu・レールモントフ
1825年、10歳の詩人はリウマチを患ってピャチゴルスクへ療養に来た。
これが彼にとって初めてのコーカサス。
1837年、プーシキンの死に際して書いた、社交界を批判した詩『詩人の死』が手書きの原稿で出回り、皇帝の目に触れて激戦地コーカサスへ「転任」となる。
1840年、決闘をしたかどで再びコーカサスへ流されることになる。
1841年7月15日(新暦では27日)友人マルトゥイノフと決闘して死ぬ。銃弾が当たってほぼ即死だった。
27年に少し足りない、短く激動に満ちた人生はこうして幕を閉じた。
有名な小説『現代の英雄』は1840年の作品。ここにもピャチゴルスクが出てくる。

レールモントフが暮らした家
市内には関連する博物館が4つ(レールモントフ史跡公園)、決闘の場所、小説の舞台などゆかりのある場所を数多く見ることができる。長らく彼の決闘の理由を知らなかったのだけど、この地でその理由を知ることができた。決闘を挑んだのは友人だったそうだ。
そんな決闘の理由は「レールモントフに婦人たちの前で笑いものにされたから」。
しかしながら、笑いものにされて決闘を挑んだマルトゥイノフはレールモントフが自分をからかってくれるだろうと思ってわざとチェルケス人の民族衣装を着てきたといわれている。彼らは良い友人であり、関係も極めて良好だったそうだ。友人の悪意のない嘲笑が、「それ以上」のものになってしまったのだろう。
決闘でレールモントフの心臓へ銃弾を打ち込んだ彼は、半年間刑務所へ入り、その後キエフの修道院での懺悔を義務付けられたらしい。彼は60歳を越える高齢まで生きたそうだ。

レールモントフ決闘の場所
決闘の際詩人は銃を友人へ向けることなく、銃弾を空へ放った。
2人の間の距離はわずか30歩。
銃を天へ向ける詩人を見た友人は何を思ったのか
銃を自分へ向ける友人を見て詩人は何を思ったのか
レールモントフは最後までマルトゥイノフの友人であり続けた
ペチョーリン(現代の英雄の主人公)とはちがって。
後世に彼ら以上の才能を持った詩人はロシアにはいないといわれる。

M・Yu・レールモントフ
1825年、10歳の詩人はリウマチを患ってピャチゴルスクへ療養に来た。
これが彼にとって初めてのコーカサス。
1837年、プーシキンの死に際して書いた、社交界を批判した詩『詩人の死』が手書きの原稿で出回り、皇帝の目に触れて激戦地コーカサスへ「転任」となる。
1840年、決闘をしたかどで再びコーカサスへ流されることになる。
1841年7月15日(新暦では27日)友人マルトゥイノフと決闘して死ぬ。銃弾が当たってほぼ即死だった。
27年に少し足りない、短く激動に満ちた人生はこうして幕を閉じた。
有名な小説『現代の英雄』は1840年の作品。ここにもピャチゴルスクが出てくる。

レールモントフが暮らした家
市内には関連する博物館が4つ(レールモントフ史跡公園)、決闘の場所、小説の舞台などゆかりのある場所を数多く見ることができる。長らく彼の決闘の理由を知らなかったのだけど、この地でその理由を知ることができた。決闘を挑んだのは友人だったそうだ。
そんな決闘の理由は「レールモントフに婦人たちの前で笑いものにされたから」。
しかしながら、笑いものにされて決闘を挑んだマルトゥイノフはレールモントフが自分をからかってくれるだろうと思ってわざとチェルケス人の民族衣装を着てきたといわれている。彼らは良い友人であり、関係も極めて良好だったそうだ。友人の悪意のない嘲笑が、「それ以上」のものになってしまったのだろう。
決闘でレールモントフの心臓へ銃弾を打ち込んだ彼は、半年間刑務所へ入り、その後キエフの修道院での懺悔を義務付けられたらしい。彼は60歳を越える高齢まで生きたそうだ。

レールモントフ決闘の場所
決闘の際詩人は銃を友人へ向けることなく、銃弾を空へ放った。
2人の間の距離はわずか30歩。
銃を天へ向ける詩人を見た友人は何を思ったのか
銃を自分へ向ける友人を見て詩人は何を思ったのか
レールモントフは最後までマルトゥイノフの友人であり続けた
ペチョーリン(現代の英雄の主人公)とはちがって。
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